04 / FICTION

SLENDER IV.com / 書き下ろし官能小説

女将の過ち

作品から着想を得た、書き下ろし官能小説です。

作品の余韻から生まれた、出演者本人とは無関係の独立した物語です。

創作であること

この物語は作品から着想を得た独立したフィクションです。出演者本人の心情や実際の出来事、レビュー対象の固有場面を示すものではありません。

この小説は、作者自身のアイデアと構想をもとに、AIの支援を受けながら文章化・推敲しています。

WRITTEN FOR SLENDER IV.com

若い男女が二人で宿帳に名前を書くとき、志乃はその肩の距離を見る癖があった。

触れ合うほど近い二人もいれば、スマートフォン一台ぶん空けて立つ二人もいる。女性が書き、男性が横から覗き込むこともある。逆に、どちらが先に書くかを決めるだけで妙にぎこちなくなる二人もいた。

その日の二人は、近いようで少しだけ遠かった。

男は直哉と名乗った。二十代半ばくらいで、短く整えた黒髪に、日に焼けた肌をしている。濃紺のシャツ越しにも肩幅があるのが分かり、気負わずに笑う顔には、初対面の相手ともすぐに距離を縮められそうな軽さがあった。

隣の由衣も同じくらいの年齢だろう。淡い茶色の髪を鎖骨の下まで伸ばし、細い首と白い肌がよく目立っていた。柔らかな色のニットに細身のスカートという落ち着いた服装で、整った顔立ちは派手ではないが、目を引く可愛らしさがある。ただし、その大きな目は直哉の動きをよく見ていた。

「女将さん、若いですね」

宿帳から顔を上げた直哉が言った。

「おいくつなんですか?」

由衣の表情がわずかに変わった。

「直哉、そういうこと聞くの失礼だよ」

「いや、だって女将さんっていうから。もっと年上の人が出てくると思ってた」

志乃は営業用の笑顔を作った。

「二十九です」

「見えない。すごく綺麗だし」

「だから、やめなって」

由衣が直哉の腕をつねった。

「痛いって。褒めてるだけだろ」

「褒めなくていいから」

冗談の範囲ではあった。

ただ、由衣の手は直哉の腕からすぐには離れなかった。

志乃は二人の荷物を客室まで運ぶよう仲居に頼んだ。

「お茶をお持ちした際に、館内のご案内をさせていただきます」

「女将さんが来てくれるんですか?」

直哉が訊いた。

「はい。当館は小さな宿ですので」

六部屋しかない温泉旅館だった。

志乃がここへ嫁いできたのは二十四歳のときだ。夫は十七歳年上で、結婚から二年ほどで病気が見つかり、その翌年に亡くなった。

旅館を畳む話も出たが、志乃は残った。

旅館のすべてを取り仕切るには時間が必要だった。しかも仕事は決まった時間に終わるわけではなく、客や予約の都合によって、朝にも夜にも不規則に入り込んでくる。

誰かと会う日を決めるだけで、面倒になった。

若い男女が宿に来ると、羨ましいと思うことがある。

若さではない。

二人だけの世界を持っていることが、羨ましかった。

二十分ほどしてから、志乃は茶菓子と館内案内を載せた盆を持ち、二人の部屋へ向かった。

一度、外襖を叩いた。

返事がない。

「失礼いたします」

もう一度声をかけた。

それでも返事がなかった。

外出したのかもしれない。しかし、廊下には二人の履物がそろえて置かれている。

志乃は少し迷ってから、鍵のかかっていない外襖を開けた。

「お茶をお持ちしました」

入口の次に、細い板張りの間がある。その奥の障子が、指二本ぶんほど開いていた。

志乃は足を止めた。

聞き間違えようのない声がした。

宿へ着いてから、まだ三十分も経っていない。

帰るべきだった。

盆を置き、何も聞かなかったことにすればいい。

そう思いながら、志乃は障子の隙間を見た。

直哉の背中が見えた。

その向こうで、由衣の白い脚が布団の上に伸びている。先ほどまで綺麗に肩へかかっていた淡い茶色の髪が枕に広がり、頬は赤くなっていた。細い腕を直哉の首に回し、自分から身体を引き寄せている。

志乃には、由衣の言葉までは聞き取れなかった。

けれど、なぜ彼女が宿へ着いて早々、直哉を求めたのかは分かった気がした。

帳場で直哉が志乃を褒めたからだ。

あの女将より、私を見て。

そう言う代わりに、由衣は直哉を部屋へ引き込んだのだ。

志乃は目を逸らした。

そのはずだった。

だが、もう一度だけ見た。

今度は最初よりも長かった。

直哉の肩越しに、由衣の表情が見える。可愛らしかった顔から、先ほどまでの不機嫌さが消えていた。直哉の視線を取り戻したことに満足しているようにも見えた。

我に返って部屋を出たときには、茶菓子を載せた盆を持ったままだった。

帳場へ戻り、電話に出た。

別の部屋から、浴衣のサイズを替えてほしいという依頼だった。志乃は普段どおりに答え、仲居へ指示を出した。

声は震えていなかった。

身体の奥だけが、二人の部屋から戻ってこなかった。

夕食までは、まだ二時間以上ある。

志乃は帳場の奥にある宿直室へ入った。夫が生きていた頃は、二人で伝票を整理した六畳ほどの部屋だった。今は帳簿と予備の布団が置かれている。

扉を閉めた。

古い建具がわずかに歪んでいて、完全には閉まりきらず、数センチほど隙間が残った。

閉め直すべきだと思った。

けれど、もう立ち上がる気になれなかった。

志乃は畳に座り、着物の上から膝に手を置いた。

先ほど見た光景が、勝手に戻ってくる。

由衣の細い腕。

枕に広がった髪。

直哉の背中。

自分より若い女が、嫉妬を隠そうともせず、欲しいものを取り戻そうとしていた。

志乃の手が、少しずつ膝の内側へ動いた。

ほんの少しだけ。

落ち着けば、すぐ仕事に戻るつもりだった。

しかし、一度触れると、身体は余計に熱を思い出した。自分を止めるためだったはずの手が、いつの間にか逆の役割を持ち始める。

志乃は目を閉じた。

誰も入ってこない。

そう思った途端、指の動きを抑える理由がなくなった。

先ほど見た由衣の表情が浮かぶ。直哉の腕にしがみつき、他の女を見た男の視線を、自分の身体へ取り戻そうとしていた。

もし自分にも、あんなふうに求めてくる男がいたら。

もし今、誰かに触れられたら。

考えるほど、志乃は周囲の音を聞かなくなった。

着物の裾が乱れていることにも気づかなかった。廊下を誰かが歩く音も、宿直室の向こうで足音が止まったことも聞こえなかった。

呼吸を押し殺しながら、夢中で指を動かした。

やがて身体が小さく震えた。

志乃は畳に片手をつき、しばらく動けなかった。早くなった呼吸を戻そうと、俯いたまま息を吐く。

その静けさが数秒続いたあと、帳場の呼び鈴が鳴った。

一度だけだった。

志乃は顔を上げた。

宿直室の扉の隙間から、帳場の前に立つ直哉が見えた。

いつからそこにいたのか分からない。

ただ、呼び鈴を鳴らすために今来たばかりの人間の顔には見えなかった。

直哉の視線が、乱れた志乃の裾から、まだ洗ってもいない手へ移る。

目が合った。

志乃はすぐに手を引き、着物を整えた。

直哉も、すぐには目を逸らさなかった。

「すみません」

ようやく直哉が口を開いた。

「氷って、もらえますか?」

何事もなかったような声だった。

志乃は立ち上がった。

「少々お待ちください」

声は出た。

直哉は笑わなかった。

そのことが、かえって恥ずかしかった。

それから二時間以上が過ぎた。

夕食は部屋で出すことになっていた。

仲居に任せることもできたが、志乃は自分で盆を持った。

仕事なのだから、不自然ではない。

部屋へ入ると、二人は何事もなかったように座っていた。

由衣の髪はきれいに整えられ、浴衣の襟にも乱れはない。頬の赤みも消え、直哉と並んで座る姿からは、到着してすぐに何をしていたのか、まったく想像できなかった。

直哉も平然としていた。

志乃だけが、二人の浴衣の下にある身体を知っている。

そして直哉だけが、先ほどの志乃を知っていた。

「先ほどは、ありがとうございました」

直哉が言った。

「いえ」

志乃は料理を並べた。

「何が?」

由衣が訊いた。

「氷もらったんだよ」

「いつの間に?」

「由衣がシャワー浴びてるとき」

「そうなんだ」

由衣は特に気にした様子もなく、料理へ目を向けた。

志乃は刺身の皿を置いた。

「地元で獲れた鯛でございます。こちらの藻塩でお召し上がりください」

「女将さん」

直哉に呼ばれ、顔を上げた。

「お酒、お願いしてもいいですか?」

「はい」

徳利を取り、彼の杯に注ぐ。

志乃の袖が落ち、手首が出た。

直哉の視線がそこへ移った。

先ほど、自分で押さえていた場所だった。

志乃には、その視線の意味が分かった。

それでも袖を直さなかった。

徳利を置くとき、直哉の指と触れた。

すぐに離れるはずだった。

志乃は半拍だけ遅れて手を引いた。

「さっきから、何?」

由衣が言った。

「何が?」

「女将さんと、何か変じゃない?」

志乃は表情を変えずに頭を下げた。

「ごゆっくりお過ごしください」

襖を閉めても、二人の声は廊下まで聞こえた。

「直哉、着いたときからずっと女将さんのこと見てるじゃん」

「見てないよ」

「見てるよ。さっき何かあったんでしょ?」

「氷もらっただけだって」

「だったら、女将さんの方まで変なのは何で?」

志乃は廊下に立ったまま聞いていた。

自分の仕事へ戻るべきだった。

それでも足が動かなかった。

「もういい」

由衣の声がした。

「お風呂入ってくる」

襖が開く気配がし、志乃は急いで階段へ向かった。

しばらくして、大浴場へ続く廊下を由衣が一人で歩いていくのが見えた。

志乃は帳場へ戻った。

宿帳を開き、必要のない数字を確認した。

数分後、階段から足音がした。

「女将さん」

顔を上げる。

直哉が一人で立っていた。

「うちの彼女、見ませんでした?」

「先ほど、大浴場の方へ向かわれました」

「やっぱり」

直哉は困ったように笑った。

「喧嘩して、出ていっちゃったんですよ」

「申し訳ございません」

「女将さんが謝ることじゃないですよ」

そう言ってから、直哉は少し考えた。

「いや、半分くらいは女将さんのせいかもしれないけど」

志乃は黙った。

「綺麗ですねなんて言ったから、ずっと機嫌悪くて」

「彼女さんの前で、ほかの女性を褒めるものではありません」

「本当に綺麗だと思ったから」

「そういうことを、簡単に言わない方がよろしいですよ」

「簡単じゃないです」

直哉が帳場へ近づいた。

「ところで、女将さん」

「はい」

「さっき、してましたよね」

志乃の指が、宿帳の上で止まった。

「何のことでしょう」

「帳場の奥で」

直哉は声を落とした。

「俺が呼び鈴を鳴らす前」

逃げ道はあった。

客の勘違いだと言えばいい。怒って追い返すこともできる。

志乃は宿帳を閉じた。

「はい」

直哉が意外そうに眉を上げた。

「認めるんだ」

「見られているのに、今さら嘘をついても仕方ありません」

「俺たち、見たんですか?」

志乃は一度目を伏せた。

「見てしまいました」

「それで?」

「本当に申し訳ありません」

「それで、我慢できなくなった?」

志乃は答えなかった。

直哉は帳場に手を置いた。

「違うなら、違うって言ってください」

「違いません」

自分の声が、思っていたより落ち着いていた。

直哉はしばらく志乃を見た。

「じゃあ、俺が慰めましょうか」

「何を言っているんですか」

「寂しいんでしょう?」

「彼女さんがいらっしゃいます」

「あいつも浮気してるんですよ」

志乃は直哉を見た。

「知ってるんです。スマートフォンを見たから」

「それでも一緒に旅行へ?」

「別れるか、戻るか決めるつもりだったんです。でも、まだ相手と連絡を取ってる」

それが本当かどうか、志乃には分からなかった。

確かめようとも思わなかった。

「だから、僕も一回くらいいいんですよ」

直哉が言った。

「バレなきゃ」

「よくありません」

「そうですか?」

直哉が手を伸ばした。

帳場の上に置いていた志乃の指を取る。

「嫌なら、引いてください」

志乃は手を引かなかった。

直哉の親指が、手首の内側をゆっくり撫でた。脈を確かめるような触れ方だった。

「こんなことされても、平気ですか?」

「お客様ですから」

「質問の答えになってない」

「戻られた方がいいですよ」

「女将さんこそ、手を離せばいい」

志乃はそこで初めて、自分の指が直哉の手を握り返していることに気づいた。

離そうとすると、直哉が手首をつかんだ。

強くはなかった。

逃げようと思えば逃げられる程度だった。

彼は帳場の横へ回り込んだ。

近づいてくる。

志乃は一歩下がった。

背中が柱に当たった。

「さっき、ここまで赤くなってましたよ」

直哉の指が志乃の耳に触れた。

「いつから見ていたんですか」

「途中から」

「すぐ呼んでくれればよかったでしょう」

「そんなこと、できると思います?」

指が耳から頬へ移り、唇の端で止まった。

志乃は息を止めた。

「彼女さんが戻ってきます」

「電話が来ると思います」

「来たら?」

「戻ります」

「それまで、ですか」

直哉は答えなかった。

志乃も、それ以上は訊かなかった。

彼の顔が近づいた。

最初の口づけは短かった。

試すように触れ、すぐ離れる。

志乃は追わなかった。

止めもしなかった。

二度目は、直哉の方から深くなった。

志乃は柱に手をついた。

唇を受け入れた瞬間、もう帳場へ戻ることはできないと分かった。

直哉の手が着物の上から腰へ回る。

胸元へ上がりかけたところで、志乃はその手をつかんだ。

「ここでは、まずいです」

「じゃあ、どこなら?」

志乃はしばらく彼を見た。

それから、帳場の奥へ続く扉を開けた。

「ついてきてください」

宿直室へ入ると、志乃は扉を閉めた。

「十五分だけです」

「十分でいい」

直哉がもう一度口づけてきた。

先ほどより急いでいた。

志乃も止めなかった。

帯が緩み、襟元から冷たい空気が入る。そこへ直哉の手が触れた。

夫が亡くなってから、男に触れられるのは初めてだった。

優しくされたいとは思わなかった。

名前を呼ばれたいとも思わなかった。

あの部屋で見た二人の熱を、自分の身体へ移したかった。

「ゆっくりしないでください」

志乃が言った。

直哉の動きが一瞬止まった。

「時間がないから?」

「それもあります」

「ほかには?」

「訊かないでください」

彼は笑わなかった。

志乃の身体を抱き寄せ、そのまま畳へ押し倒した。

愛し合うためではなかった。

慰めるためでもない。

互いに見てしまったものを、もう一度確かめるために、二人は身体を重ねた。

直哉のスマートフォンが震えた。

畳の上で画面が光る。

〈由衣〉と表示されていた。

直哉は見ただけで、手を伸ばさなかった。

「出なくていいんですか」

志乃が小声で訊いた。

「まだいい」

「戻ってきていますよ」

「分かってます」

電話が切れた。

志乃は目を閉じた。

恋人の名前が畳の上に現れたことで、してはいけないことの輪郭が、かえってはっきりした。

それが身体を冷ますことはなかった。

二度目にスマートフォンが震えたとき、直哉は志乃の声を唇で塞いだ。

十五分もかからなかった。

終わると、二人はすぐに離れた。

直哉は浴衣の帯を締め、スマートフォンを手に取った。

「戻ります」

「はい」

「女将さん」

「何でしょう」

「また来てもいいですか」

志乃は緩んだ襟を直した。

「彼女さんのところへ戻ってください」

答えにはなっていなかった。

直哉はそれ以上訊かなかった。

直哉が客室へ戻るのを見届けてから、志乃は予備のタオルを持って二階へ上がった。

二人の部屋の前を通りかかる。

襖の向こうから、由衣の声が聞こえた。

「どこ行ってたの?」

「由衣を探してた。電話くらい出てよ」

「ごめん。お風呂に入ったあと、外の椅子にいた」

「心配したんだぞ」

「直哉も電話に出なかったじゃん」

「すれ違ってたんだよ」

少し間があった。

「まだ怒ってる?」

直哉が訊いた。

「そっちこそ」

「もういいよ」

衣擦れの音がした。

抱き寄せたのだろう。

「帰ったら、ちゃんと話そう」

「うん」

志乃はその場を離れた。

二人は別れないのかもしれない。

少なくとも今夜は、同じ布団で眠る。

志乃が入り込んだことなど、由衣は知らない。

知らないまま、直哉に抱かれる。

二人の関係を壊さなくても、その中へ入ることはできる。

その事実が、志乃の中に静かに残った。

翌朝、二人は並んで帳場へ来た。

由衣は昨日より明るい顔をしていた。

「昨日、ちょっと騒いじゃってすみませんでした」

「いえ。お風呂はいかがでしたか?」

「すごく気持ちよかったです。彼も探しに来てくれて」

由衣が直哉の腕へ自分の腕を絡めた。

直哉は何も言わず、部屋の鍵を帳場へ置いた。

志乃と目が合う。

ほんの一瞬だった。

「また来たいです」

由衣が言った。

志乃は頭を下げた。

「お待ちしております」

二人を見送ってから、志乃は宿帳を閉じた。

次の週末の予約を確認する。

二十六歳の男性と、二十四歳の女性。

二名一室。

志乃は、その欄に置いた指をすぐには離さなかった。