SLENDER IV.com / 書き下ろし官能小説
いつも行儀の悪い左手が、急に行儀よくなった
レビュー作品とは独立した短編小説です。
この物語はレビュー記事と組み合わせた独立小説です。レビュー対象作品からの着想や、出演者本人の心情・実際の出来事・固有場面を示すものではありません。
この小説は、作者自身のアイデアと構想をもとに、AIの支援を受けながら文章化・推敲しています。
WRITTEN FOR SLENDER IV.com
私には、少し変わった趣味がある。
歴代の恋人たちとの夜を、ノートに書き残していることだ。
初代ダーリン。 二代目ダーリン。 三代目ダーリン。 そして、現在のダーリン。
本棚の片隅、おおげさな革表紙のバインダーの中に、彼らと過ごした時間が年代順に並んでいる。 万が一誰かに読まれたら、その場で意識を失う自信がある。 けれど、やめる気は毛頭ない。
最初は、ごく普通の覚書だった。 今日は優しかったとか、あのとき言われた言葉が嬉しかったとか、次はもう少し時間をかけてほしいとか、その程度。 ところが、いつの頃からか現実には起きなかったことまでペン先が勝手に走るようになった。
あのとき、もし私がこう言っていたら。 彼があんなふうに返してくれていたら。 そのあと、あんなふうに乱れて、こんなふうに求め合っていたら――。
要するに、ただの妄想である。 日記の途中から、突如として私による私のための濃厚な官能小説が開幕するのだ。
最初のうちは、我に返って「何を書いているんだろう」と頭を抱えた。 だが、慣れとは恐ろしいもので、今では立派なライフワークになっている。世の男性たちが人知れず深夜に動画を漁るのと、本質的には何も変わらない。むしろ自分で一から執筆しているぶん、こちらのほうがいくらか創造的でエコですらある。そういうことにしてある。
そして、文章が熱を帯びて大胆になるにつれ、私の左手はとても行儀が悪くなる。
右手は極めて真面目な記録係だ。ペンを握り、丁寧な文字を紙の上に並べていく。 対する左手には、社会性のかけらもない。 パジャマの隙間から滑り込み、勝手気ままに熱を探し始める。
かつて一度だけ、両手を机の上に揃えて、最後まで品行方正に書き切ってみようと試みたことがある。 結果は惨敗だった。十秒と保たなかった。 だから、もう抗うのはやめた。
右手は冷徹な書記官。 左手は自由奔放な現場担当。 これが私の確立された執筆スタイルだった。
誰にも迷惑はかけていない。 誰にも見せない。 もちろん、愛するダーリンにも見せるわけがない。 だから完全な無害――少なくとも、先月まではそう信じていた。
***
困った事態に気づいたのは、ここ数年のノートを気まぐれに読み返していたときだった。
相手は違う。 場所も違う。 書いた時期もバラバラ。 なのに、妄想の中で私が相手に求めているシチュエーションが、異様なほど一致していたのだ。
たまたまの気分かと思った。 だが、一冊めくっても、二冊めくっても、三冊めくっても。 執拗に、まったく同じ欲望がページを埋め尽くしている。
「……うそでしょ」
思わず口から漏れた声が、しんとした部屋に落ちた。 好き、なんてものではない。 喉から手が出るほど、してほしいのだ。 文字の上だけでなく、現実の肌で。一度でいいから。
そこを認めてしまった瞬間から、私の平穏な日常に亀裂が入った。
私は、今のダーリンのことが好きだ。 穏やかで、優しくて、誠実。 これからも長く一緒にいたいと思っている。 だからこそ――絶対に言えない。
ノートの中の私が繰り広げていることなんて、口が裂けても言えるはずがない。 「そんなふうに思ってたの?」と引かれたらどうするのか。 変態だと思われて、あの優しい笑顔が引きつったらどうするのか。 自覚があるだけに、愛する男の前でその化けの皮を剥がす勇気など微塵も持てなかった。
自分で処理して気を紛らわせれば、そのうち熱も引くだろうとタカをくくっていた。 だが、現実は真逆だった。 一人で触れれば触れるほど妄想の解像度は跳ね上がり、跳ね上がった妄想をまた右手で書き殴り、書けば書くほど現実の飢餓感が募っていく。 地獄のような自家発電ループである。
ある夜、私は天井の虫みたいな模様を睨みながら、乾いた息を吐いた。
「……このままいったら、私、本当に誰かとやらかすんじゃない?」
誰への問いかけでもない。 けれど、切実な予感だった。 普通の男と出会って、デートを重ねて、情が移って、浮気になって泥沼――それは絶対に嫌だ。ダーリンを裏切って傷つける趣味はない。 なら、いっそ。 絶対に恋愛感情に発展しない相手と、ただの一度だけ、願望を吐き出すためだけに割り切るならどうなのだろう。
そこまで考えて、我ながら清々しいほどの屁理屈だと呆れた。 だが、呆れつつも、一度火がついた思考はもう止まらなかった。
噂に聞いたバーの扉を叩いたのは、それから二週間後のことだった。
一人で訪れた男女を、マスターがさりげなく見繕って会話を繋いでくれるという、隠れ家のような店。 露骨な出会い系のような下品さはない。ただ酒を飲んで帰ってもいいし、気が合えば大人の自己責任でその先へ行ってもいい。
その日の夕方、私は鏡の前に三枚の下着を並べて、無言の睨み合いを続けていた。
一枚目は、漆黒の総レース。 勝負下着の代表格。だが、あまりに「狙ってます」という気迫が透けて見えて痛々しい。万が一のときに、出かける前から自分がどれほど前のめりだったのかを自白するような布地は却下だ。
二枚目は、肌馴染みのいい無難なベージュのコットン。 清潔、安心、日常の私。 だが、これをつけてあのバーへ行くのは、逆に白々しすぎて自分への嫌がらせに近い。
三枚目は、淡いアイスブルーのシルク混。 一見すると可憐で控えめだが、よく見ると肌の透け感が絶妙で、背中のホック周辺に華奢なコードがあしらわれている。 鏡の前に当ててみる。
「……うん、これなら『たまたま可愛い下着をつけていただけの女』に見える」
誰に対するアリバイ工作なのか自分でも分からなかったが、私はその三枚目を身につけた。 服はあえて、オフィス帰りのような端正なシャツとタイトスカート。 露骨に男を誘う気配は消しつつ、脱いだときにだけ小さく裏切る。 鏡の中の女は、どこからどう見ても「仕事帰りにちょっと一杯引っ掛けに来ただけのOL」の顔をしていた。完璧だった。
バーの扉を開けたとき、先客はいなかった。 薄暗い店内、磨かれたカウンター、気さくすぎず冷たすぎないマスター。 拍子抜けするほど普通のバーだった。
カクテルを傾けながら、心の中で半分ほっとして、半分がっかりしていた。 今日が空振りなら、それはそれでいい。予行演習だ。 そう自分に言い聞かせていたとき、カランとドアベルが鳴った。
入ってきた男性を一瞥した瞬間、私の直感は即座に判定を下した。
――ない。絶対に、ない。
失礼を承知で言わせてもらえば、見た目は完全に私のストライクゾーンの場外だった。 冴えないというほどではないが、地味で、服装も無難。色気があるわけでも、目を引くようなスマートさがあるわけでもない。 でもまあ、これなら安全だ。絶対に好きにならない。
男は私の二席隣に座り、ウイスキーのロックを頼んだ。 やがてマスターが、当たり障りのない話題で私たちを繋いだ。 仕事の話、休日の過ごし方、最近美味しかった店。 私は当たり障りのない愛想笑いを浮かべ、適当に相槌を打っていた。
だが、会話が進むにつれ、妙な違和感が胸に引っかかり始めた。
彼の話し方には、男特有の「自分を良く見せようとする力み」が一切なかった。 こちらの言葉を遮らない。 質問を投げかけてきた後、私が言葉を選ぶまでの沈黙を、少しも焦れずに待っている。 沈黙を恐れて中身のない言葉で埋めようとしない男というのは、思っている以上に珍しい。
「……聞き上手ですね」 ふと、本音が漏れた。 彼はグラスの氷を静かに揺らし、小さく笑った。 「そうですか? ただ、人を急かすのがあまり得意じゃないだけですよ」
その低く落ち着いた声音を聞いた瞬間、私の脳内で、鍵をかけていたはずのノートが勝手に音を立てて開いた。
――この人なら。 全然タイプじゃない。恋愛感情なんて一ミリも湧かない。 だから、言えるんじゃないか。 笑われないかもしれない。馬鹿にされないかもしれない。
心臓が、耳の奥でドクンと嫌な跳ね方をした。 グラスを持つ指先が、かすかに震える。 今日はずっと大人しくしていたはずの左手が、膝の上でじわりと熱を帯びていく。
二杯目を飲み終えた頃、彼がふと時計を見て、こちらに視線を向けた。
「もしよかったら、もう少し話しませんか」
ただそれだけ。下心を行列させているような口調ではなかった。 帰るなら今だ。頭の片隅で理性が叫んでいた。「明日も仕事だし」と断れば、何事もなく部屋に帰れる。 そしてまた、一人でノートを開いて、右手で嘘を書き、左手で行儀の悪さを繰り返すのだ。
……それは、もう嫌だった。
「……はい」
絞り出すような私の声に、男は驚きもせず、ただ静かに頷いた。
***
ホテルの部屋に入った途端、心の空気が張り詰めた。
広くも狭くもない、清潔なダブルベッド。 さっきまでカウンター越しに飄々と話していたのに、二人きりの密室になった瞬間、逃げ場のない現実がどっと押し寄せてくる。 コートを脱ぎ、バッグをサイドボードに置く。カチリという金具の小さな音が、異様に大きく響いた。
彼は急にコトを進めようとはしなかった。 ベッドの端に腰掛け、私が落ち着くのを待っている。その無言の優しさが、むしろ私の心拍数を上げていった。
「……何か、言いたいことがあるんでしたよね?」 静かな声だった。 私は息を詰まらせ、爪の先を見つめた。 「……変な女だって、引くかもしれません」 「聞いてみないと分かりませんよ」 淡々とした答えだった。呆れるでもなく、面白がるでもなく、ただフラットに差し出された言葉。
私は小さく息を吸い、胸の奥で何年も燻っていた塊を、ひとつずつ吐き出すように口を開いた。
「……私、彼氏がいるんです」 「はい」 「その人には、どうしても言えないことがあって」 「うん」 「……普通じゃないかもしれないんです。私、行為の最中に……挿入されたまま、前を……その…ク……、敏感なところを、ずっと触っていてほしくて」 喉がカラカラに乾いていた。顔から火が出そうだった。 だが、彼は眉ひとつ動かさずに聞いていた。促すように、ただ小さく頷く。
「それから……最中に、自分でも触りたくなるんです。相手に触られてるだけじゃ足りなくて、自分でもそこを弄りたくなって……あと、上になったとき、相手のペースじゃなくて、自分の体重で思い切り、奥まで擦りつけるように動きたくて……!」
一気にまくし立てて、最後に声が震えた。
「……それに、汚い言葉……もっと奥までちょうだいとか、中が熱いとか、恥ずかしい台詞を口に出したくなるんです。私……変ですよね? おかしいですよね?」
頭を抱えそうになる私を見て、彼はきょとんとした顔をした。 それから、ふっと口元を緩めた。
「……え、それだけですか?」 「……え?」 顔を上げると、彼は本当に拍子抜けしたように苦笑していた。
「もっととんでもない性癖を告白されるのかと身構えてました。それ、全然変じゃないですよ。むしろ、すごく普通だし……男からしたら、自分の好きなように動いてくれたり、感じてることを口にしてくれたほうが、ずっと嬉しいですけどね」 「……普通、なんですか?」 「普通ですよ。自分の体なんだから、どうされたら気持ちいいか知ってるのは当たり前だし、それを隠して我慢してるほうが不自然です」
すとん、と胸の奥の重石が音を立てて落ちた。 拍子抜けするほどあっけなく、私が何年もノートの隅に閉じ込めていた呪いが解けていく。 なんだ。 変態でも、異常でもなかったんだ。
「それがわかっても気が変わってないなら……練習してみますか?」 立ち上がった彼が、私の目の前に立った。
異常ではなかったんだからダーリンで試せば良いのだけど、ここまで来て断るのは、さすがに申し訳なさすぎる。 というのは多分、都合の良い言い訳だ。
見上げる彼の輪郭は、相変わらず私のタイプとは程遠かった。 けれど、伸ばされた手のひらの温かさに、私の身体は嘘みたいに素直に反応していた。
***
ベッドに押し倒されるような荒っぽさはなかった。 彼は私のシャツのボタンを、上からひとつずつ外していった。 布地が肌を滑る感覚。少し冷たい空気が露出した鎖骨をかすめて鳥肌を立てる。 ブラジャーの淡いブルーが露わになったとき、彼の手が背中に回り、ホックを外した。 両胸が解放され、初めて会った男の前で、あらわになる。
「綺麗ですね」 耳元で囁かれた言葉に、お世辞だと分かっていても下腹がぎゅっと疼いた。
彼の手のひらが、胸のふくらみを包み込む。 温かい。彼氏のそれよりも少し大きく、無骨な手だった。 指先が尖った先端を軽く転がすたびに、背筋を電流のような痺れが駆け抜ける。
「ん……っ」 漏れた声に自分で驚いたが、彼は止めない。 スカートのファスナーが下ろされ、タイトな生地が足首まで落とされる。 ショーツ越しに、彼の手のひらがゆっくりと熱の集まる場所を撫でた。 じっとりと湿り気を帯びていた布地が、肌に張り付く。
「……もう、こんなになって」 「言わないで……」 恥ずかしさで顔を背けようとしたが、顎をそっと戻され、深いキスで塞がれた。 大人の、余裕のあるキスだった。唾液が混じり合い、舌が絡むたびに、頭の芯がとろけていく。
彼がベッドの上に仰向けになった。 スラックスと下着を脱ぎ捨てた彼の腰の上に、私は跨がるように促された。
「……本当に、いいんですか?」 「好きなように動いていいって、言ったでしょう」
彼の手が私の腰を支え、ゆっくりと誘導する。 濡れきった私の入口に、生まれて初めて、熱い硬さを自分で当てた。 先端が触れ合っただけで、思わず息を呑む。 少し慣らせて、自分の重みで、少しずつ、沈んでいく。
「あ……はぁ……っ」
裂けるような抵抗感はなく、あふれ出た蜜が滑りを助けて、根元までずるりと飲み込んでいく。 満たされる感覚。彼氏とのときには味わえなかった、自分から相手を呑み干すような重量感と圧迫感。 下腹の奥深くまで異物が届いた瞬間、腰が震えて止まらなくなった。
「ぁ…すごい……全部入って……奥に…」 「動いてごらん」
彼が下から囁いた。 私は彼の逞しい胸に両手をつき、恐る恐る腰を浮かせた。 ずる、と抜ける感触。そして再び、一気に腰を落とす。
「あぁぁ……んんっ!」
硬い芯が、私の内壁の一番敏感な襞を削るように擦り上げていく。 一度リズムを掴むと、もう遠慮はできなかった。 ノートに何十回も書き殴った通りの角度、通りの深さ。 私は髪を振り乱しながら、夢中で腰を揺らした。 上下に跳ねるだけでなく、円を描くように体重を預けて、彼の奥まで自らの熱を押しつぶす。
「あ、すごい……っ、これ、すごく……っ!」 「うん……大丈夫、上手いよ」
彼が下から私を見上げ、息を荒くしている。 その顔を見た瞬間、私の中で理性が完全に弾け飛んだ。 男を翻弄しているという全能感。 私の腰の動きひとつで、男が快楽に顔を歪めている。
「ねえ、気持ちいいの?……私の奥、気持ちいい?…私、気持ちいい……んんっ……気持ちいいよ……」 恥ずかしい言葉が、堰を切ったように口から溢れ出た。 「もっと……擦って……っ、ここ、ここ、中がすごく熱い……っ!」 「いいよ、もっと言って」
彼の手が私の腰から離れ、前へと回り込んだ。 繋がったままの、結合部のすぐ上。 ぬるぬるに濡れた私の蕾を、彼の人差し指と中指が捉えた。
「はっ……あっ……!!」
全身が跳ね上がった。 挿入された奥の強烈な摩擦と、表面の突起をピンポイントで弾かれる鋭い刺激が、同時に脳天を直撃する。 呼吸が止まりそうになるほどの快感が、背骨を駆け上がっていく。
「あ、だめ、それ……いやっ、私、おかしくなっちゃう……っ!」 「自分で触りたかったんじゃないの?」 彼の声が、熱っぽく耳に届く。
私は震える自分の手――あの、いつも夜中に勝手に動いていた左手を、二人の重なり合う場所へと伸ばした。 彼の手の上に、自分の指を重ねる。 彼の手の動きをなぞりながら、自分の一番感じやすい場所へと爪を立てるようにして、刺激を加える。
彼の手が引き、私の手をそこに誘導した。そこはもう、何の液かわからないくらいにくちゃくちゃに濡れていて、私は夢中で、その濡れた芯を擦り上げる。
彼に侵入されながら、自分の手で自分を開発する感覚。 背徳感と解放感が綯い交ぜになって、視界が白く明滅した。 腰の動きが止まらない。なりふり構わず、獣のように腰を打ちつけ、声を張り上げる。
「あぁっ! いく……っ、わたし、いっちゃう……っ!!」 「いいよ、いって」
彼の手が強くそこを圧迫し、奥深くで彼のものが脈打った瞬間。 私の身体の奥底で、巨大な波が爆発した。
内壁が狂ったように収縮し、彼を締め上げる。 喉から叫びのような喘ぎ声が抜け、視界が完全に真っ白に染まった。 快楽のあまり背中が弓なりに反り、私は彼の胸の上に崩れ落ちた。
部屋の中には、荒い二人の呼吸と、汗と、肌が擦れ合った後の匂いだけが充満していた。 彼の手が、汗で張り付いた私の髪を優しくほどき、鎖骨を撫でていた。
***
深夜、静まり返った自宅の玄関ドアを閉めた。 靴を脱ぎ、部屋の明かりをつける。
いつもの見慣れたワンルーム。 静寂が戻ってきた途端、さっきまでの出来事がまるで遠い夢のように思えた。 だが、内腿に残る微かな痛みと、下腹の奥に残る痺れるような充足感が、それが紛れもない現実だったことを教えてくれる。
シャワーを浴び、丁寧に身体を洗った。 脱衣所のカゴに放り込まれた、あのアイスブルーの下着を見る。 出かける前は、無実を装うだの何だのとあれほど真剣に悩んでいたのが、今となっては可笑しくてたまらない。 結局、最初からすべては私の思惑通りだったのだ。
髪を乾かし、パジャマに着替えて机に向かった。 机の上には、いつも通りの革表紙のノート。 右手で愛用の万年筆を握る。
ページを開き、今夜の出来事をどう書くべきか、少しだけ考えた。 いつもなら、相手の男の採点表のようなものが並ぶはずだった。 ルックス、会話、テクニック、総合評価。
だが、私はその項目をすべて書くのをやめた。 代わりに、ただ一行、こう書いた。
『私は、普通だった。』
ペン先を走らせる。 自分が何を恐れていたのか。 何を恥ずかしがっていたのか。 そして、本当は何をずっと望んでいたのか。
何年も書き続けてきたこの日記は、歴代の男たちの記録なんかじゃなかった。 私が私自身の欲望を、誰にも言えない本能を、右手を使って必死に肯定しようとしていただけの場所だったのだ。
ふと、自分の左手に視線を落とした。
いつもなら、妄想の途中でとっくに暴走し、パジャマの下で行儀悪く動き回っていたはずの左手。 けれど今夜は、机の上にぽつんと置かれたまま、静かに丸まっている。 まるでお腹いっぱい美味しいものを食べた子猫のように、微動だにしない。
「……満足した?」
小声で話しかけてみたが、当然ながら左手は何も答えない。 ただ、心なしかいつもより少しだけ、誇らしげに見えた。
私は小さく吹き出し、右手だけでノートの続きをさらさらと埋めていった。 こんなふうに両手が平和に机の上に揃っている夜も、たまには悪くない。 ペンを置き、パタンとノートを閉じた。 今夜は、泥のように深い眠りにつけそうだった。