SLENDER IV.com / 書き下ろし官能小説
妄想好きのわたしが、違う形で現実になる
レビュー作品とは独立した短編小説です。
この物語はレビュー記事と組み合わせた独立小説です。レビュー対象作品からの着想や、出演者本人の心情・実際の出来事・固有場面を示すものではありません。
この小説は、作者自身のアイデアと構想をもとに、AIの支援を受けながら文章化・推敲しています。
WRITTEN FOR SLENDER IV.com
女として見られたいと思う。
でも、女として見られたがっていると思われるのは、恥ずかしい。
二十九歳にもなって、私はまだその二つを両立させようとしている。
朝はちゃんと化粧をする。髪も手を抜かない。自分で言うのも何だけど、鏡を見る限り、悪くはない。
ところが、最後に選ぶ服がおかしい。
今日も、濃紺のパンツに白いシャツ。その上から、ポケットの多い仕事用のジャケットを羽織っている。
動きやすい。鍵もメジャーも入る。
便利だ。
便利なんだけど。
「立花さん、頼もしいですね」
お客さんからよく言われる。
不動産屋としては、たぶん正解なんだと思う。
ただ、今朝きれいに巻いた髪にだって、もう少し別の感想があってもよくないか。
そう思いながら、私は今日も袖をまくる。
男性のお客さんを一人で案内する日は、少しだけ楽しみだった。
特に、背が高くてすらっとした人。
空っぽの部屋で二人きりになると、ほんの一瞬、仕事とは関係のないことを考える。
相手が急に物件以外の話をしてきたら。
私を見る目が、少し変わったら。
……なんて。
現実には、収納の奥行きを測って終わる。
当然だ。
その当然の現実を分かっているくせに、鞄には「念のため」のコンドームまで入っている。
「何の念だ?」と自分でも、ときどき呆れる。
今日のお客さんは、坂井さん。二十七歳。
店で顔を合わせた瞬間、私は頭の中の余計な予定を消した。
丸い輪郭の顔に、がっしりした身体つき。ゆったりした服。話すときは、こちらより手元の資料を見ている。
私の好みとは、かなり違う。
今日はハズレ、普通に仕事だな。
もちろん、向こうは最初からそのつもりで来ている。
「では、こちらから見ていきましょう」
私は車の鍵を取った。
***
三件目は、少し築年数の経った一階の角部屋だった。
「駅からは離れますけど、その分、広さはありますね」
玄関から廊下を抜け、リビングへ入る。
坂井さんは私の少し後ろを歩いていた。
質問は少ないけれど、説明はきちんと聞いてくれる。愛想が悪いわけではなく、慎重な人らしい。
「窓を開けると、風も通ります」
そう言って、私は窓際へ向かった。
カーテンレールに何かついている。
枯れ葉かな、と思った。
動いた。
「わぁっ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
虫が飛ぶ。
私は反射的に後ずさった。
すぐ後ろに坂井さんがいたことを、完全に忘れていた。
肩がぶつかる。足がもつれる。
「危ない」
坂井さんが、とっさに両腕を支えてくれた。
一瞬、何がどこにあるのか分からなくなる。
「あ、ごめんなさい!」
慌てて体勢を戻す。
虫は、何事もなかったように窓から出ていった。
騒いだのは私だけだった。
「すみません。大丈夫でした?」
「はい」
坂井さんの声が、さっきより高かった。
見ると、めっちゃ顔が赤い。
「びっくりしましたよね」
「……はい」
「私の声に?」
「それも、ですけど」
そこで言葉が止まる。
私はジャケットの裾を直した。
坂井さんは壁の方を見ている。
随分うぶな人なんだな、と思った。
「もう虫、いませんよ」
「分かってます」
「じゃあ、どうしてそっち向いてるんですか」
聞いてから、少し意地悪だったかなと思った。
坂井さんは困ったように笑った。
「ちょっと、落ち着こうと思って」
やっぱり、乙女には見せられない姿になっているらしい。
私は私でさっきまで何とも思っていなかった距離が、急に気になった。
「……私と近いと、そんなに緊張します?」
半分、冗談だった。
いつもの調子で笑って終わらせるつもりだった。
ところが坂井さんは、真面目な顔で頷いた。
「あまり、慣れてなくて」
何に。
そう聞きかけて、やめた。
私は開けた窓を閉めた。
鍵をかける。それだけの作業なのに、妙に手順を意識してしまう。
「そんなに構えなくても。こんな女ですよ」
振り向いて言うと、坂井さんが少し眉を寄せた。
「それ、どういう意味ですか」
「いや。そんなに緊張するような相手でもないでしょう」
言ってから、いつもの逃げ方だと思った。
自分で先に冗談にしておけば、相手に否定されずに済む。
坂井さんは、すぐには答えなかった。
それから、小さな声で言った。
「きれいな人だと思ってたので」
私は黙った。
今度は、私の番だった。
返事が出てこない。
「……本気で言ってます?」
「はい」
このジャケットを着て。
袖をまくって。
車の中では渋滞に文句を言っていた私を?
危うく、全部そのまま聞きそうになった。
「そういうこと、急に言うんですね」
「すみません」
「謝るところではないですけど」
むしろ、もう一度言ってほしかった。
それに気づいて、私は困った。
坂井さんは相変わらず視線を落としている。
好みじゃない。
ついさっきまで、そう思っていた顔だった。
でも今は、その顔が次にどう動くのか気になる。
私が何か言ったら、また赤くなるのだろうか。
「じゃあ、さっきは大変でしたね」
…言ってしまった。
坂井さんが顔を上げる。
「急にぶつかっちゃって」
「……そうですね」
その正直すぎる返事に、思わず笑ってしまった。
坂井さんまで、困ったように笑う。
「からかわないでください」
そこで私は口を閉じた。
自分が言われる側なら、笑って済ませられることと、済ませたくないことがある。
「すみません。調子に乗りました」
少し離れると、坂井さんがこちらを見た。
「嫌だったわけじゃないです」
「……そうですか」
「ただ、何て返せばいいのか分からなくて」
胸の中で、さっき引っ込めたはずの何かがまた顔を出した。
この人は、上手にかわしてくれない。
冗談を冗談のまま片づけてくれない。
だから、こっちまで真剣になりそうになる。
「私、いつもこんなこと言ってるわけじゃないですよ」
「はい」
「信じてます?」
「はい」
即答だった。
その信用が、少し苦しい。
だって今、私はまた何か言おうとしている。
仕事の話に戻ればいい。
収納も、洗面所も、まだ案内していない。
なのに私が聞いたのは、別のことだった。
「坂井さんって、お付き合いは、あんまり?」
彼は少し迷ってから、首を横に振った。
「ないです」
「あ、そうなんですね」
「変ですよね」
「それは別に」
本当に、そこはどうでもよかった。
ただ。
私が思っていた以上に、この人は戸惑っている。
そして私は、その戸惑いをもっと見たいと思っている。
男の人に迫られる自分なら、何度も想像した。
でも、自分から相手を困らせる方になるとは思っていなかった。
まして、この人を相手に。
「立花さんは、慣れてそうですけど」
「何にですか」
「こういう……話とか」
私は笑った。
「今、結構頑張ってます」
坂井さんが、初めてまっすぐ私を見た。
「そうなんですか」
「そうなんです」
口にすると、少し楽になった。
余裕があるふりをしていたのは、私も同じだ。
相手の反応を確かめるふりをして、確かめたかったのは自分だった。
ちゃんと、そういう相手として見てもらえているのか。
それが分かれば満足すると思っていたのに。
分かったら、次が気になってしまった。
「もう、からかうのはやめます」
私は言った。
坂井さんの顔に、少しだけ残念そうなものが浮かんだ。
それを見て、私はまた笑いそうになった。
いけない。
この人、いちいち顔に出る。
「代わりに、ちゃんと聞いてもいいですか」
「はい」
「私、もう少しだけ、仕事じゃない話をしていたいんですけど」
口にした途端、逃げ道がなくなった気がした。
もう"冗談だった"では済ませたくない。
坂井さんは黙って私を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「僕だって…できるなら…」
今度は私が、目をそらした。
ずっと、何か起きないかなと思ってたけど。
どうやら何か起こす側になると、思っていたより忙しい。
***
私は黙ったまま、リビングを出た。
玄関へ向かう足音が、空っぽのフローリングにやけに響く。
後ろから、坂井さんが戸惑ったように付いてくる気配がした。
「立花さん……?」
私は答えず、玄関のドアのサムターンに指をかけた。
カチャリ、と金属の重い音が鳴る。
鍵を閉めた。
チェーンまで掛けた。
自分でも、驚くほど手慣れた動きだった。
内見の途中で玄関を施錠する不動産屋なんて、どこを探してもいない。
これで完全に、仕事の境界線を越えた。
「……なんで閉めるんですか」
背後で坂井さんが呟いた。声が少し震えている。
「これからするのに、誰か来たら困るので」
振り向いて笑顔で言うと、彼は玄関の狭いスペースの手前で立ち尽くしていた。
「え、…え?」
がっしりした肩が、緊張で強張っている。そりゃそうだろう。
「シャッターも、閉めますね」
リビングに戻り、南向きの掃き出し窓のシャッターを下ろした。
ガラガラと大きな音がして、真昼の光が遮られる。
隙間から漏れるわずかな薄明かりだけが、何もない部屋の壁を白く浮き上がらせていた。
一瞬で、世界が狭くなる。
外を走る車の音が、急に遠くなった。
代わりに、二人の呼吸の音だけが、耳元に張り付くように近くなる。
私は床においてあった、仕事用の鞄を開けた。
メジャーと筆記用具の隙間に、あの四角い小さな袋が指先に触れた。
……本当に、使うことになるとは思っていなかった。
何の念だ、とさっき呆れたばかりの自分を、どこか冷めた目で見ている私がいる。
でも、同時に心臓がうるさいくらい早鐘を打っていた。
「立花さん」
坂井さんが、私のすぐ後ろまで来ていた。
見上げると、丸い輪郭の顔が、見たこともないくらい真剣だった。
「なんか…どうすればいいですか」
「何がですか」
まだ、意地悪を言おうとする口が動く。
坂井さんは困ったように眉を下げて、それから、大きな手をおずおずと伸ばしてきた。
指先が、私のジャケットの袖に触れる。
それだけで、触れられた皮膚の奥が、じん、と熱くなった。
「僕……本当に、慣れてないから。失礼なこと、するかもしれないです」
「失礼って」
私は小さく笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
彼の指先が、袖から滑り落ちて、私の手首を包み込んだからだ。
大きくて、少し汗ばんでいて、驚くほど熱い手だった。
私の手首など、簡単に握りつぶしてしまいそうなくらい太い指。
その手が、壊れ物を扱うみたいに、そっと力を込めて私を引き寄せた。
「……っ」
抱きしめられて胸がぶつかる。
さっき窓際でぶつかったときとは、重みが違った。
逃げ場のない、確かな質量。
男性の匂いがした。香水でも煙草でもない、清潔な柔軟剤と、皮膚の奥から立ち上る熱の匂い。
私は息を呑んだ。
「坂井さん」
「はい」
「ジャケット……脱ぎます」
自分から言ったのに、声がかすれていた。
坂井さんが腕を緩める。
私はポケットの多い仕事用のジャケットを肩から滑り落とし、床に畳んだ。
重たい鎧を脱いだみたいに、肩が軽くなる。
白いシャツ一枚になると、急に肌寒さを感じた。
築年数の経った部屋の、冷たい空気。
「立花さん、細いんですね」
坂井さんが、私の腰のあたりを見つめながら言った。
「そうでもないですよ」
「細いです。折れそう」
その言い方が、ひどく純朴で、喉の奥が乾いた。
二十九歳の、仕事で擦り切れた身体を、そんな風に見てくれる人がいるなんて思わなかった。
「坂井さんも……脱いでください」
私は手を伸ばして、彼のゆったりしたシャツのボタンに触れた。
指が震えて、一番上のボタンがなかなか外れない。
からかう余裕なんて、もうどこにもなかった。
手伝おうとした彼の指と、私の指が触れ合う。
そのたびに小さな摩擦熱が生まれて、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「僕が、やります」
坂井さんは自分でシャツを脱いだ。
現れた肩と胸板は、服の上から想像していたよりもずっと厚みがあった。
白くて、無駄な肉がなくて、男の人の身体だった。
好みじゃない、なんて誰が言ったのだろう。
目の前にあるその熱の塊に、私は目が眩みそうになっていた。
「座りませんか」
私が言うと、彼はこくりと頷いた。
家具のない部屋。ベッドも絨毯もない。
私たちは、フローリングの上に直接膝をついた。
冷たさが、薄いパンツ越しに膝の骨へと伝わってくる。
その冷たさが、かえって二人の肌の温度を際立たせていた。
坂井さんが、私を抱きしめた。
今度は、迷いのない力だった。
背中に回された太い腕が、背骨のラインを確かめるようにゆっくりと上下する。
「立花さん、髪、いい匂いですね」
耳元で囁かれて、首筋がぞくっと粟立った。
今朝、時間をかけて巻いた髪。
誰も気づいてくれないと思っていた髪に、彼が鼻先を埋めている。
「……香水じゃないですよ」
「知ってます。シャンプーの匂い」
彼の唇が、私の耳たぶに触れた。
熱い吐息が吹き込まれる。
「あっ……」
声が漏れて、私は慌てて自分の口を手で押さえた。
空っぽの部屋は、音をよく反響させる。
窓の外を誰かが通り過ぎたら、聞こえてしまうかもしれない。
その緊張感が、頭の芯を痺れさせていく。
坂井さんは私のシャツのボタンに手をかけた。
慣れていない手つきで、布地を引っ張りながら、ひとつずつ外していく。
ボタンが外れるたびに、冷たい空気が胸元へ滑り込んできた。
そして次の瞬間には、彼の熱い手のひらが、その冷たさを上書きしていく。
「きれいだ……」
彼が息を呑む音がした。
見ないで、と言いそうになって、飲み込んだ。
見られたかったんだ。
私は、女として見られたかったんだから。
彼の視線が、私の首筋から鎖骨、そして胸へと落ちていく。
遠慮がちで、けれど隠しようのない熱を帯びた視線。
私は小さく顎を引いて、彼のその瞳を見つめ返した。
恥ずかしさよりも、もっと深いところにある渇きが、私を突き動かしていた。
「坂井さん」
「はい」
「触って……ください」
口にした途端、顔が燃えるように熱くなった。
坂井さんは、まるで奇跡に触れるみたいに、そっと指先を滑らせてきた。
皮膚の薄いところを、不器用になぞる。
くすぐったくて、切なくて、下腹の奥がじわりと熱を帯びていく。
彼の指が触れるたびに、私の身体が、かすかに跳ねた。
「冷たくないですか?」
「冷たくない……暖かいです」
彼はいちいち確認してくる。
その優しさが愛おしいと同時に、もどかしい。
もっと強く触れてほしい。もっと乱暴に奪って欲しいのかもしれない。
そんな思いが胸をよぎるけれど、彼の手つきはどこまでも丁寧で、壊れ物を扱うようだった。
やがて、彼の唇が私の首筋から鎖骨へと降りてきた。
「……はぁ……っ」
湿った熱が肌を這う。
私は彼の広い背中に手を回し、爪を立てた。
硬い筋肉の感触が指先に伝わる。たまらないかも。
彼の首に手を回して、床に寝た。
フローリングの硬さが背中に当たるのも気にならないくらい、私は彼を欲しがっていた。
「立花さん…」
名前を呼ばれた瞬間、何かが弾けた。
仕事の「立花さん」ではない、ただの女としての名前。
彼の手を取り、私の胸へと導いた。同時に、彼の股間へと手を伸ばす。
奇跡的に片手でベルトを外し、彼のものを握った。
「立花さん…ああ…」
先が濡れているのがすぐに分かった。その先っぽを、親指で撫でて、下の方を握った。
「ん…生で触っていいですか?」
私が言うのと同時に、彼のぎこちない手の感触が胸を這う。
「はい…触ってください」
興奮した声。いつもこんな会話はしないけど、今はこれが心地よかった。私も濡れているのが自分で分かる。
「あっ…」
不意に乳首に触れられ、思わず声が出る。ブラのホックを自分ではずした。
ズボンも脱いで、パンティだけになる。床が冷たい。
彼が下着の上から濡れたところを少し乱暴に触った。
「はっ…!…ん…私も、生で…」
普段言わないような言葉が興奮を誘う。
彼のゴツゴツした指が下着の上から入ってくる。自分の、はしたない液で、感触がぬるぬるしていた。
「あはぁ……気持ちいいです……んん…っ」
優しく、ゆっくりと指が入って来た。一本、二本。奥まで入って、行き止まりに触れる。
「ああっ!いやっ……ぅんっ!」
思わず大きく出てしまった声が響いて、我に返った。
「気になって、あまり長くできないですね…」
私は鞄に手を伸ばし、あの小さな袋を取り出した。
「これ…」
坂井さんの前に差し出す。
彼は一瞬目を丸くして、それから、耳まで真っ赤にしてそれを受け取った。
破る手元がもどかしい。
そのぎこちなさを見ているだけで、胸が苦しくなるほど締め付けられた。
準備をする間、彼は背中を向けていた。
その背中の丸まり方に、彼の生真面目さと必死さが滲み出ている。
「……できました」
振り向いた彼の顔は、まるで試験を受ける前の少年のようだった。
私は手を伸ばして、彼の頬に触れた。
「大丈夫ですよ」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
彼を安心させたいのか、それとも、自分に言い聞かせているのか。
彼が私の上に覆いかぶさってくる。
ずしりとした重みが、心地よかった。
何もない部屋の、白い天井が視界の端に映る。
電灯の笠のないソケット。壁の小さな汚れ。
いつもの仕事で何十回と見てきたはずの空っぽの風景が、まるで別の世界の底のように見えた。
挿入は、戸惑うほど静かだった。
「……んっ……はぁっ…」
私の身体が、ゆっくりと彼の熱を受け入れていく。
逃げ場のない質量が、ためらいがちに、けれど確実に身体の芯まで沈み込んできた。
「あぁ…っ…はぁぁっ……」
息がうまく吸えない。
「痛くないですか?」
耳元で、かすれた声がした。
「痛く…ないです……全然……」
嘘ではなかった。床の痛みよりも、驚くほどまっすぐに押し寄せてくる熱に、頭の奥が痺れていた。
「気持ちいいです……」
坂井さんは私の両手をぎゅっと握りしめた。
指と指が組み合わされ、フローリングの床に押し付けられる。
冷たい床板と、彼の手のひらの異常な熱さ。
その二つの温度の狭間で、私の輪郭が溶けていくようだった。
「んんっ…!はっぁ…っ…」
彼はひどく不器用だった。
上手にかわすことも、スマートにリードすることもできない。
ただ、目の前にある私の身体に、持っている力のすべてでぶつかってくる。
そのがむしゃらな熱が、私の皮膚を、筋肉を、骨の奥まで揺らした。
「あっ、あっ、はぁっ……坂井、さん」
呼ぶと、彼がびくりと震えた。
首筋に、彼の熱い額が押し当てられる。
汗の匂いがした。
ただ懸命に生きている男の人の匂い。
シャッターの隙間から漏れる光が、天井に細い線を描いている。
外を走る車のエンジン音が、遠くで小さく唸っては消えていく。
世界中から切り離された、真昼の空室。
音を立ててはいけないという緊張感が、かえって吐息を熱くさせた。
「んっ、んっ、んっ、んっ…坂井さん…」
漏れる声を喉の奥で噛み殺すたび、下腹の奥がきゅうと締め付けられる。
私は彼を支えるように、広い背中に両腕を回した。
爪が皮膚に食い込む。
「立花さん……」
耳元で、息を切らしながら名前を呼ばれた。
その切羽詰まった響きに、胸の奥が甘く疼いた。
もっと触れてほしい。
もっと、私の名前を呼んでほしい。
みっともないほど乱れた女の顔を焼き付けてほしい。
冷たかったはずの足先までが熱を帯び、彼と同じ温度で呼吸を重ねようとした、腰が動いてしまう。
もっと、もっと、と思い始めた瞬間。
「っ……!」
坂井さんの身体が、弓なりに強く強張った。
握られていた私の手のひらに、骨がきしむほどの力がこもる。
彼は私の首筋に顔を埋めたまま、声にならない息を深く吐き出した。
荒い呼吸が、首の皮膚に熱く吹きかかる。
トク、トク、と、彼の胸の鼓動が、私の胸骨に直に響いていた。
部屋の中を、二人の乱れた呼吸の音だけが満たしている。
坂井さんの身体から、ふっと力が抜けた。
私の上に重たい体重を預けたまま、彼は安堵したように、深く、長く息を吸い込んだ。
「……はぁ」
まるで、長い坂道を全力で登り切ったあとのような吐息だった。
私は天井の白いソケットを見つめたまま、彼の背中に添えた手を、そっと下ろした。
私の身体の奥には、まだ火照りが残っている。
引き返せないところまで連れて行かれそうだった感情の波が、行き場を失って、足元からすうっと引いていく。
坂井さんは私の肩口に額を寄せたまま、小さく身じろぎをして、それから恐る恐る身体を起こした。
その丸い顔には、大仕事をやり終えたような、ひどく純粋な安堵が浮かんでいた。
***
……あ。
もう、終わりなんだ。
私は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
坂井さんは隣で、ひどく恐縮していた。
「すみません」
「謝らなくていいです」
それは本当に、そう思う。
思うけど。
私の方は、やっと気持ちが追いついてきたところだった。
二人とも黙った。
窓の外を、自転車が通り過ぎる。
私は床に置いた物件資料を拾った。
「じゃあ……収納、まだでしたね」
「はい」
仕事の声は、驚くほど簡単に戻った。
だが戻らないものも、あるらしい。
女として見られたい。
その願いは、確かに叶った。
叶ったけど。
……これからだったんだけどな。
私は今日いちばんきれいな営業用の笑顔を作って、クローゼットを開けた。