SLENDER IV.com / 書き下ろし官能小説
自暴自棄だった私は、電車で私を撮っていた男を追いかけた
レビュー作品とは独立した短編小説です。
この物語はレビュー記事と組み合わせた独立小説です。レビュー対象作品からの着想や、出演者本人の心情・実際の出来事・固有場面を示すものではありません。
この小説は、作者自身のアイデアと構想をもとに、AIの支援を受けながら文章化・推敲しています。
WRITTEN FOR SLENDER IV.com
昔から、私は「隙がない」と言われることが多かった。
切れ長の目に、すらりとした体つき。胸は大きすぎず、服を着たときのシルエットがすっきり綺麗に見える程度。髪は黒より少しだけ明るいブラウンにしている。
黙っていると、真面目そうに見えるらしい。
あるいは、プライドが高そう。
男に媚びなさそう。
簡単には口説けなさそう。
実際、独身の同世代から気軽に声をかけられることは、見た目のわりに多くなかった。 「すずさんって、高嶺の花っぽいよね」なんて、飲み会の席で遠巻きに言われるのがオチだ。全然そんなことないのに。中身はただの、仕事終わりに缶ビール飲んでポテチ食べてるような女なのに。
その代わり、妙に私のことを見抜いてくる男たちがいた。
既婚者だった。
最初は偶然だと思っていた。 けれど二度目、三度目と重なるうちに、流石に気づいた。
そういう男たちだけは、 「本当は、そんなに堅い人じゃないでしょ?」 とでも言いたげな、分かったような目つきで距離を詰めてくるのだ。
そして悔しいことに、それはだいたい当たっていた。
私自身、そういう関係をどこかで都合よく割り切っていた。 家庭を壊してほしいなんて思わない。修羅場なんてごめんだ。 ただ、私と一緒にいる時間だけ、私のことだけを見てくれればそれでいい。 面倒な将来の約束も、親への紹介も、親戚付き合いもない。ただ互いの都合のいい夜だけを重ねる。 そのほうがずっと楽で、スマートだと思い込んでいた。
なのに。 今回は少し違ってしまったのだ。
終わってみてから、ようやく気づいた。 私、あの人のことが本当に好きだったんだ。
週末の夜、相手がそそくさと時計を見て「そろそろ帰らなきゃ」と立ち上がる背中を、いつの間にか泣きそうなくらい寂しいと感じていた。 連絡が途絶える夜、既読がつかないスマートフォンの画面を、暗い部屋で何度も何度も光らせていた。
それでも、口には出さなかった。 そんな図々しいことを言える立場じゃないことくらい、痛いほど分かっていたから。
そして先週、あっけなく終わった。 向こうからの切り出しだった。
「カミさんに、ちょっと勘づかれそうなんだ」 「しばらく、会わないほうがいいと思う」
最初は「しばらく」という言葉で濁していたはずなのに、話しているうちに、それが実質的な別れの宣告なのだと嫌でも伝わってきた。 私はいつものように、完璧な笑顔を作った。
「そうだね。そのほうがいいよ。奥さん大事にしてあげて」
最後まで、物分かりのいい「都合のいい女」を全うしてしまった。 自分からかっこつけて幕を引いてやった。
家に帰って、靴も脱ぎ散らかしたまま玄関の床で泣いた。 自分でも引くくらい泣いた。翌朝、目が腫れて仕事に行けないんじゃないかと思うほどに。
悲しい。 悔しい。 けれどそれ以上に、底知れない虚しさが胸にぽっかりと穴を開けていた。
何だったんだろう、私。 都合よく消費されて、潮時が来たらポイと捨てられて。 隙がない大人の女気取りで、結局のところ、誰の一番にもなれないまま。
そんな自暴自棄な気分を引きずったまま、数日が過ぎた。
***
その日の仕事帰り、私はいつもの通勤電車に揺られていた。 夕方のラッシュが本格化する直前。車内はそこそこ混んでいたが、運良く座席の端を確保できた。
窓ガラスに映る自分を、ぼんやりと眺める。 薄手のブラウスに、膝丈のタイトスカート。ストッキングを履いた脚を組み、バッグを膝の上に置いている。 いつも通りの私。オフィスカジュアルを無難に着こなして、いかにも「しっかり働いています」という顔。 中身がどれほどボロボロに擦り切れているかなんて、誰にもわからない。
ふと、視線を感じた。
通路を挟んだ斜め向かいの座席に、若い男が座っていた。 年齢は二十代半ばか、後半くらいだろうか。くたびれたスーツを着た、どこにでもいそうな平凡な男。 最初は気にも留めていなかった。 けれど、電車の揺れに合わせて、何度も、何度も視線がこちらへ飛んでくる。
男はスマートフォンを両手で持っていた。 画面を見つめるふりをしている。けれど、その角度が明らかに不自然だった。 水平よりも少し上を向き、背面のカメラレンズが、まっすぐにこちらを捉えている。
私がふっと顔を上げると、男はビクッと肩を震わせ、慌てて視線を画面に落とした。 数秒後、またそっとスマートフォンが持ち上がる。 レンズの黒い瞳が、私を覗いている。
……うん。 撮ってるね?
思わず眉をひそめた。 普通なら、ここで睨みつけるか、立ち上がって席を移動するべきだ。 あるいは次の駅で降りて、駅員に言いつけることだってできる。
でも、そのときの私は、どうしようもなく疲れていた。 怒るエネルギーすら湧いてこなかった。 それどころか、頭の奥で、冷え切った別の思考がふつふつと湧き上がってきたのだ。
――そんなに見たいんだ。私を。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど冷めた、自嘲混じりの笑いが口元に浮かんだ。
好きだった男には、家庭の平和を守るためにあっさりと切り捨てられた。 お前なんていなくても人生は何一つ困らないとばかりに、手放された。 なのに、この見ず知らずの男は、盗撮というリスクを冒してまで、必死に私を欲しがっている。私を記録しようとしている。
馬鹿みたい。本当にくだらない。 けれど、その卑しい視線が、私の空っぽだった自尊心をほんの少しだけ満たしていくのが分かった。
――いいよ。そんなに見たいなら。
私は、わざとらしくならないよう細心の注意を払いながら、すっと脚を組み替えた。 布擦れの音を立てて、タイトスカートのスリットがわずかに開き、ストッキングに包まれた太ももの曲線が露わになる。 バッグの位置を少しだけ横へずらし、胸元のラインが見えやすくなるように、窓へ向けていた肩をほんの数ミリだけ開いた。
男のスマートフォンが、ピクリと動いた。 画面を持つ指先が、わずかに震えている。
やっぱりね。 確信した。
何してるんだろう、私。 頭の片隅で、冷静な方の自分は呆れている。 盗撮を見逃すどころか、自分からポーズをつけるなんて、完全に頭がおかしい。
でも、止められなかった。 むしろ、男がどう反応するのかを見届けたくてたまらなくなっていた。
もう一度、ゆっくりと脚を組み替える。 わざと靴先を揺らして、男の視線を誘導してやる。 すべて「たまたま座り直しただけ」に見えるように。
男の息が荒くなっているのが、数メートル離れたこちらにまで伝わってくるようだった。 スマートフォンを握る指に力が入り、画面をタップする頻度が増えている。 私の太ももを、胸元を、爪先を、必死に切り取っているのだ。
腹が立つ。 気持ち悪い。
――なのに、どうしてこんなにゾクゾクするの。
こんなボロボロの私でよければ、どうぞ好きなだけ眺めればいい。 そんな投げやりな自暴自棄だったはずの感情が、いつの間にか、
――もっと見なさい。もっと私に執着しなさい。
という、暗くねじれた快感へと変色していた。
電車が主要駅のホームへ滑り込む。 アナウンスが流れ、男が弾かれたように立ち上がった。 スマートフォンをポケットに突っ込み、そそくさと出口へ向かう。
降りるんだ。 まあ、そうよね。ここで終わり。 赤の他人の歪んだ視線で、ほんの数分の暇つぶしをしただけ。
そう思って、見送るはずだった。
なのに。 プシューと音を立ててドアが開き、男がホームへ足を踏み出した瞬間。
気がついたら、私も席を立っていた。
理解不能だった。 バッグを掴み、ヒールを鳴らして、開いたドアをすり抜ける。 背後でドアが閉まり、電車が発車していく。
ホームの冷たい風を浴びて、初めて我に返った。
……ちょっと待って。私、何してるの?
男は少し前を、早足で歩いていた。 当然、私がついてきていることなんて全然気づいていない。
帰ろう。次の電車を待って、本来の駅へ戻ればいい。 そう思いながら、なのに私の足は、男の後を追っていた。 男が階段を降り、別の路線の乗り換え改札をくぐる。私もSuicaをタッチして、適度な距離を保ちながら吸い寄せられるように階段を降りていく。
笑えてきた。 さっきまで電車で盗撮されていた側なのに、今度は自分がストーカーみたいに男をつけている。 完全に狂ってる。今日一日の私、マイナス何万点よ。
男の乗り換え先のホームは、夕方の帰宅ラッシュで黒山の人だかりだった。 滑り込んできた電車は、すでに満員に近い。 男は人の波に押されるようにして乗り込む。 私も迷わず、そのすぐ後ろに滑り込んだ。
「うわ、詰めてくださーい」 駅員のアナウンスとともに、背後から猛烈な人の圧力がかかる。 逃げ場のない鉄の箱の中に、私たちは押し込められた。
車内は、まさにすし詰め状態だった。 吊り革も手すりもすべて誰かの手に握られ、人の体温と湿気でエアコンの風が霧散している。
私は、男の真後ろに立っていた。 男の背中まで、わずか数センチ。
電車がガタゴトと音を立てて走り出した瞬間、男がふと、何気なく振り返った。
目が合った。
至近距離。息がかかるほどの距離で、視線が真っ向からぶつかり合った。
男の顔から、さっと血の気が引いた。 見開かれた両目が、信じられないものを見るように見開かれ、唇が小さく震える。
――あ、気づいた。
男は完全に悟ったのだ。 さっきまで向かいの席で盗撮していた「隙のない綺麗な女」が、なぜか自分を追って同じ電車に乗り、しかも真後ろに立っているという事実に。
車内の騒音の中、男の喉が「ひっ」と鳴ったのが聞こえた。 パニックに陥った男は、慌てて前を向き直した。 背中がガチガチに強張っている。首筋に冷や汗が滲んでいるのが、すぐ目の前に見えた。
でも、男は何も言わない。 「ついてこないでください」とも、「さっきはすみません」とも言えない。自分が犯した罪を認めることになるからだ。 そして私も、何も言わなかった。
電車が大きく揺れた。 人の雪崩が起き、私の胸と肩が、男の背中にぐっと押し付けられた。 偶然を装って、けれど体重をしっかりと乗せて。
男の背中の筋肉が、悲鳴を上げるように硬直した。 けれど男は、体を避けることもできず、ただ吊り革を握りしめて耐えている。
私は待った。 何かリアクションを起こしてくるのを待った。 さっきあれだけカメラを向けて、私の体を貪るように撮っていたのだ。 これだけ密着して、逃げ場のない満員電車で、男がどう出るのか。
一分。 二分。 電車は次の駅を通過し、揺れ続ける。
……何もしない。
男はただ、石のように固まったまま、必死に正面を見つめているだけだった。 微動だにせず、呼吸を浅くして、嵐が過ぎ去るのを待つように耐えている。
その無様な姿を見ているうちに、私の胸の奥で、苛立ちがむくむくと鎌首をもたげた。
何なのよ。 撮ってたくせに。 あんなに舐めるように見てたくせに。
こっちがわざわざ電車を乗り換えて、ここまで追いかけてきてあげたのに。 こんなに近くにいて、触れ合っているのに。 怯えて縮こまってるだけ?
電車が急カーブに差し掛かる。 車体が大きく傾いた。 私はその遠心力を利用して、今度は言い訳のできない強さで、男の腰へと自分の下腹部と太ももを密着させた。
トン、と鈍い感触が伝わる。 男の肩がビクッと跳ね上がった。
その反応を感じた瞬間、私の苛立ちは、急速に別の色へと塗り替えられていった。
――あ。 ――この人、今、ものすごく困ってる。
***
満員電車の騒音と、窓の外を流れる地下鉄の暗闇。 周囲の乗客たちは、吊り革にぶら下がりながら死んだような目でスマートフォンの画面をスクロールしている。誰も、私たちの足元や背中の隙間になんて注意を払っていない。 ここは満員電車という名の、完璧な密室だった。
私は、左手に持っていた通勤バッグを、男の腰と私の体の間に滑り込ませた。 外からは、私がバッグを抱えて立っているようにしか見えない絶妙な死角を作る。
そして、空いた右手を、バッグの陰からそっと伸ばした。
男のスーツの上着の裾から、スラックスの腰回りへ。 薄い布越しに、指先を這わせる。
「っ……!」 男の口から、押し殺した小さな息が漏れた。 吊り革を握る男の右腕に、ギリギリと青筋が浮かぶ。
私はそっと、男の横顔を覗き込んだ。 さっきまで俯いていた男の顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。 奥歯を強く噛み締め、眉根を寄せて、必死に何かを堪えている。 その瞳には、恐怖と、混乱と――そして、抗いようのない熱が渦巻いていた。
――かわいい。
不意に、そんな言葉が私の頭に浮かんだ。 自分でも信じられない感情だった。 盗撮犯という卑劣な男に対して、あろうことか「かわいい」なんて。
けれど、先週まで私を振り回していた「大人の余裕たっぷりな既婚者の男」と、目の前にいる「私の指先ひとつでパニックになっている男」の落差が、私の歪んだ征服欲を猛烈に刺激した。
この男には、私を捨てる余裕なんてない。 嘘をついて家庭に逃げ帰るズルさもない。 今、この瞬間、私の手のひらの上で、ただただ翻弄されている。
主導権は、完全に私の手の中にあった。
私は男の耳元へ、ほんのわずかに顔を寄せた。 周囲の轟音にかき消されるような、けれど男の鼓膜には確実に届く、甘く低い囁き声を落とす。
「……ねえ」
男の背中が、雷に打たれたように跳ねた。
「さっき……いっぱい、撮ってたよね?」
「っ、あ……」 男の喉が痙攣した。 弁明の言葉を探そうとして、けれど何も声にならず、ただ熱い吐息だけが漏れる。
「私のこと、そんなに欲しかった?」
囁きながら、私はバッグの陰で、指先を男のスラックスのフロントへと滑り込ませた。 布地の上から、手のひら全体でゆっくりと圧をかける。
そこには、もう隠しようのない変化が起きていた。 信じられないほど熱く、硬く、張り詰めた塊が、私の手のひらを押し返してくる。
――うそ。こんなに? 恐怖と羞恥で怯えているはずなのに、身体の反応はあまりにも正直だった。 男の生物としての本能が、私の密着と囁きに、抗うことなく屈服している。
「……っ、や、め……」 男が微かに唇を動かした。懇願するような、消え入りそうな声。 でも、手は払ってこない。吊り革を握りしめたまま、微動だにできないでいる。
「やめて、ほしいの?」 私はふふっと小さく笑い、手のひらを円を描くように動かした。 ゴワついたスラックスの生地越しに、その熱量と脈動がダイレクトに伝わってくる。 「嘘つき。こんなになってるのに」
電車の揺れが、二人の体を容赦なく擦り合わせる。 男の太ももと私の太ももが絡み合い、ストッキング越しに男の体温が染み込んでくる。 男をいたぶっているはずの私自身の身体の奥底からも、じわりと甘い痺れが立ち上ってきた。
失恋で凍りついていた私の身体が、この男の異常な熱気に当てられて、急速に解凍されていく。 下腹の奥がきゅんと疼き、息が少しだけ熱くなるのを自覚した。
男を弄ぶだけのはずだった。 なのに、男の切迫した呼吸を聞くたび、私の胸の空洞が、濃密な快感で満たされていく。
私は、男のシャツの裾をそっと引っ張り出し、スラックスのベルトのバックルに指をかけた。 カチャリ、と車輪の軋みにかき消されるほどの小さな金属音が鳴る。 男がビクッと腰を引こうとしたが、満員の背後からは容赦なく人の壁が押し寄せていて、逃げる隙間なんてどこにもない。
「動かないで。……周りにバレちゃうよ?」
耳元で吐息を吹きかけながら、ファスナーをゆっくりと、コマ送りのように下ろしていく。 ジジジ……という微小な摩擦音が、男の理性を一本ずつ削り取っていくのが分かった。
隙間から指を滑り込ませる。 下着のゴムを押し下げると、剥き出しの熱い熱が、私の指先に触れた。
「ひっ……!」 男が息を呑み、全身の筋肉を硬直させた。 手のひらに収まるその質量は、脈打つ心臓のようにドクドクと拍動している。 皮膚の表面はしっとりと汗ばみ、触れた指先が火傷しそうなくらいに熱い。
私は男の耳たぶを唇でかすめながら、その熱い先端へ、親指の腹でじっくりと圧を加えた。 指先を滑らせるたびに、男の腰がピクピクと痙攣する。 吊り革を掴む男の指先は白くなり、額には大粒の汗が滲んでいた。
「……あぁ、あぁ……」 男の口から漏れる声を、電車がガタゴトと鉄橋を渡る激しい走行音がかき消してくれる。
「気持ちいい……?」 私が尋ねると、男は首を小さく横に振った。 けれど、その腰は無意識のうちに、私の指先の動きを追うように微かに揺れている。
なんて切実で、不器用な反応なんだろう。 経験豊富な男のスマートな愛撫なんかよりも、ずっと、ずっと生々しくて、狂おしい。
私はファスナーの隙間に深く手を沈め、男の硬直した熱をしっかりと握り込んだ。 指先を上下に滑らせる。 衣服の擦れる音と、僅かな湿り気を帯びた摩擦が、バッグの影で密やかに繰り返される。
男の息がどんどん荒くなっていく。 ハァ、ハァと肩を上下させ、限界が近いことを告げていた。 私の指先にも、男の先端から滲み出た熱い雫が絡みつく。
「ねえ……全部出していいよ」 私は男の耳元で、甘く、残酷に囁いた。 「電車の中で、私の手の中で……全部、汚して」
その言葉が、最後の引き金になった。
電車が大きく揺れ、ブレーキがかかる。 キキーッという甲高い金属音が車内に響き渡った瞬間。
「――っっ!」
男は声にならない絶叫を喉の奥に押し込め、ビクンと背中を弓なりに反らせた。 私の手のひらの中で、熱い塊が激しく脈打ち、何度も、何度も爆発するように跳ねる。
ドクッ、ドクッ、と溢れ出す熱い奔流が、私の指先を、そして男自身の下着とスラックスの内側を容赦なく濡らしていく。 男の全身から力が抜け、吊り革にぶら下がるようにして、私の肩へぐったりと体重が預けられた。
耳元で、ゼエゼエと乱れた熱い呼吸が繰り返される。 男の首筋から、湯気のような熱気が立ち上っていた。
私は、そっと手を引き抜いた。 バッグから取り出したハンカチで、指先の熱い汚れを静かに拭き取る。
男は、放心したように俯いたまま、荒い息を吐き続けていた。 スラックスの前のあたりに、濃いシミがじわりと広がっている。 もう、立っているのがやっとという有様だった。
私は男の耳元に、最後にもう一度だけ唇を寄せた。
「……ごちそうさま」
小さく囁いて、私は男の背中からすっと身を引いた。
***
「まもなく、さかた〜、さかた〜」 アナウンスが流れ、電車が駅のホームに滑り込む。
プシューと音を立ててドアが開いた。 私は人の波をすり抜け、誰よりも早くホームへと降り立った。
男がついてくる気配はなかった。 ついてこられるはずもない。あの状態のスラックスで、まともに歩けるわけがないのだから。
ふと立ち止まり、振り返る。
閉まりかけたドアの向こう側に、男の姿が見えた。 吊り革に片手でつかまり、もう片方の手で必死に服の前を隠しながら、呆然とした表情でこちらを見つめている。 その目は、さっきまでの恐怖でも欲望でもなく、ただただ魂を抜かれたような、信じられないものを見る眼差しだった。
ほんの二、三秒、視線が交錯する。
私は、クスッと笑って、小さく手を振って見せた。
プシュー。 無機質な音を立ててドアが閉まり、電車はゆっくりと加速して闇の中へと吸い込まれていった。
ホームに、一人残される。 夜の風が吹き抜けて、火照った頬を冷ましてくれた。
急に、あたりが静まり返ったような気がした。
私はホームのベンチに腰を下ろし、深く息を吐き出した。 バッグを開けてスマートフォンを取り出す。 画面に表示された時刻を見て、思わず苦笑した。 本来降りるはずだった駅から、三駅も先まで来てしまっている。
「……何やってんだろ、私」
膝の上に広げた自分の手を見つめる。 ハンカチで綺麗に拭き取ったはずなのに、指先にはまだ、あの男の圧倒的な熱さと脈動の感触が残っているような気がした。
服、ちょっと汚しちゃったかな。 まあ、いいか。
「ご褒美のほうが、ずっと大きかったでしょ」
誰もいないホームで、声に出して呟いてみる。 そもそも、最初に勝手にカメラを向けて盗撮してきたのは向こうなのだ。 通報されて警察に突き出される代わりに、あんな思いができたんだから、むしろ感謝してほしいくらいだ。
お互い様。 そういうことにしておこう。
アナウンスが鳴り、反対方向の上り電車が滑り込んできた。 私は立ち上がり、スカートの皺を払って電車に乗り込む。
車内はガラガラだった。 窓際の席に座り、暗いガラスに映る自分の顔を眺める。
切れ長の目に、少し明るいブラウンの髪。 相変わらず、隙がなくて、プライドが高そうで、真面目くさった大人の女の顔。
思わず、ふっと吹き出してしまった。
「みんな、本当に見る目がないんだから」
でも。 さっきのあの男だけは、ほんの少し違ったのかもしれない。 私の内側にある、ドロドロとした歪んだ欲望を、期せずして引きずり出してしまったのだから。
名前すら知らない。 連絡先も知らない。 たぶん、二度と会うこともない。
それでいい。それが一番いい。
なのに。 最寄り駅に着いて改札を出るころになっても、 あの男の、真っ赤になって必死に快楽に耐えていた無様な顔だけは、 私の頭の奥底に焼き付いたまま、どうしても消えてくれそうになかった。